(まあ、〝あしながおじさん〟に甘えるのが苦手だったのは、秘書の久留島さんがどんな人なのか分かんなかったからっていうのもあるけど。電話で話した感じでは、すごく優しくていい人そうだったし。……そうだ!) 純也さんはバレンタインデーに「田中さんの分の贈り物は要らない」と言っていた。それなら、秘書の久留島さんに贈るというのはどうだろう?(久留島さんにも何かとお世話になってるから、そのお礼ってことで。純也さんも久留島さんのことは何も言ってなかったし) これなら純也さんが二人分もらうことにもならないし、門が立たない。「……わたし、もう一人あげたい人がいること思い出した」「えっ? 誰だれ?」「おじさまの秘書の人。普段お世話になってるから、そのお礼に」「「ああー……」」 愛美の答えに、二人ともが納得した。「おじさまの分は要らないって純也さんに言われたけど、秘書の人は別でしょ?」「……確かに」「そうねえ。叔父さま、秘書の方のことは何もおっしゃってなかったんでしょう?」「うん。っていうか、わたしもついさっき思いついたの。なんで気がつかなかったんだろう! ……あ、一人分増えたら毛糸足りない! 買い足さないと!」「待って待って、これから行くの? もうすぐ暗くなるし、一人で行ったら危ないよ。あたしたちも百均行くの付き合うから、とりあえず愛美は着替えておいで」「……あ、そうだった」 愛美が私服に着替えてから、三人は百円ショップでグレーの毛糸の他にチョコ作りの道具やラッピング用品などもドッサリ買い込んだ。 * * * * ――仲良し三人組で編み物教室とチョコ作りを楽しみながら頑張り、迎えたバレンタインデー当日。この日は土曜日。学校はお休みである。「愛美、初めての手作りチョコ、ちゃんと美味しくできてよかったね」「うん! これなら自信持って純也さんに渡せるよ。絶対喜んでくれると思う」 昨日、できたチョコを一人一個ずつ試食してみたら、満足のいく出来だったのだ。「珠莉も、手編みのマフラー、どうにか形にはなったし」「ええ。さやかさんの教え方がよかったからよ。あとはラッピングで何とかごまかしましたわ」 元々編み物が得意な愛美とさやかが編んだものの出来映えは、言わずもがなだ。特に愛美は、同じ日数で純也さんの分と久留島さんの分の二本を編み上げている。「――さ
「――もしもし、お兄ちゃん。今日バレンタインじゃん。でさ、珠莉がお兄ちゃんに渡したいものあるって。今からこっちに来られる?」 治樹さんが純也さんと顔を合わせるのは、原宿へ遊びに行った五月以来、七ヶ月ぶりだ。あの時の純也さんは治樹さんに嫉妬心むき出しで、愛美も「大人げない」と思ったけれど……。(……ま、今回は大丈夫でしょ。わたしともう恋人同士なわけだし、治樹さんは珠莉ちゃんに会いに来るんだし)「……分かった。じゃあ待ってるからね。――珠莉、お兄ちゃんもこっち来るって」「そう。……嬉しいけれど、何だかドキドキするわ」「分かるなあ。わたしも今、ドキドキしてるもん。付き合ってたって気持ちはおんなじ」 好きな人に贈り物を渡す前の女の子の気持ちは、誰しも共通しているのかもしれない。「喜んでもらえるかな」「ガッカリされないかな」と。今日はそんな女の子たちが全国に溢れ返る、そんな日なのだ。「ええ、……そうね」「喜んでもらえるといいね、お互い。頑張って作ったんだもん」「ええ」 * * * *「――やあ、愛美ちゃん! 珠莉にさやかちゃんも、元気してた?」 午後三時を過ぎて、〈双葉寮〉の前に現れた純也さんは、休日だからかハイネックのニットの上からダウンジャケットを着込んだカジュアルスタイルだった。ボトムスは焦げ茶色のコーデュロイパンツ。デニムではないところが、全体のバランスを整えていてオシャレな彼らしい。「はい、みんな元気ですよー。愛美も今年はインフルかかんなかったしね」「うん。純也さん、来てくれてありがとう」「叔父さま、ようこそいらっしゃいました。今日はまたずいぶんとカジュアルな装いですこと」「三人とも、熱烈歓迎ありがとう。そして珠莉、今日も辛辣なコメントありがとうな」 純也さんは出迎えてくれた三人に笑顔でお礼を述べ、姪である珠莉にはブッスリと釘を刺すことも忘れない。「……それはさておき。さやかちゃん、珠莉、これは俺から。欧米では、バレンタインデーには男から女性に贈り物をする日なんだ。って珠莉は知ってるか」 彼はまず、二人にチョコレートの箱を手渡す。多分、一箱千円はする、ちょっとお高いチョコだと愛美は推察した。
「わあ、ありがとうございます!」「ありがとうございます、叔父さま。……あら、愛美さんの分は?」「そして、愛美ちゃんにはこれ」 愛美にくれたのは、可愛い猫をモチーフにした別のブランドのチョコだった。……確かこれは、一箱二千円くらいしたはず。「ありがとう! これ、SNSで見て気になってたの。可愛くて食べるのもったいないなぁって」「ホントに? 俺もさ、こういうの愛美ちゃんは好きそうだなと思って選んだんだ。喜んでもらえてよかった」「……なんか、愛美のだけあたしたちのと差つけられちゃったよね。別にいいんだけどさあ」「そりゃ、彼女だからね。二人には申し訳ないけど、差をつけさせてもらいました」 さやかのボヤきに、純也さんは悪びれた様子もなく答えた。「……あ、治樹さん」 そこへ、タクシーからさやかの兄・治樹が降りてきた。 ――五人は応接室へと移動し、そこで三人の女の子たちはプレゼントを渡すことになった。「まあ、治樹さん! ようこそいらっしゃいましたわ!」 珠莉は好きな人を、叔父以上に熱烈歓迎した。「あ、珠莉ちゃん。やっほー♪ つうか、これって今どういう状況?」「あたしが説明するよ、お兄ちゃん。純也さんは愛美に会いにきた。ついでにあたしたちにもチョコくれた。で、お兄ちゃんには珠莉のために来てもらったの。そして可愛い妹のためにもね。以上」 また純也さんとバチバチになりそうな兄に、さやかが説明した。「というわけで、治樹さん。これを……。手作りのチョコレートとマフラーです。マフラーは初めて編んだので、あまり自信がないんですけど……」「あ……ありがとう。オレのために一生懸命編んでくれたんだよね? 嬉しいよ」「それで……その、私とお付き合いして下さいませんか? 私、治樹さんのことが……」「うん、オレも好きだよ」「……えっ!?」(あらら、なんか二人、いい感じ……) 何だか新たなカップルが誕生しそうな予感に愛美も嬉しくなり、今度は自分の番だと純也さんの袖先を掴む。「純也さん、これ。――さっき珠莉ちゃんがバラしちゃったからもう言っちゃうけど、チョコと手編みのマフラー」「ありがとう。……で、チョコの味は?」「保証つき。三人でちゃんと試食もしたから」「そっか、よかった。――で、こっちの包みがマフラーか。開けていいかな?」「うん、どうぞ」 純也さ
「……ああ、いい色だ。俺の好きなブルーだね。それに編み方も凝ってるな。愛美ちゃん、編み物得意だったんだ?」「うん。冬休みのデートの時、焦げ茶色のカシミヤのマフラーが気に入ってないみたいだったから。それで編んであげたくなったの。で、どうせならと思って二人も巻き込んで」「はは、愛美ちゃんらしいな。……ね、頼みがあるんだ。マフラー、君が俺に巻いてくれないかな?」「うん、いいよ」 二人はソファーに座り、愛美はそこで彼にマフラーを巻いてあげた。「ありがとう。あったかいよ」「よかった、喜んでもらえて。頑張って編んだ甲斐があったよ。……あ、そうだ」 愛美は晴美さんに預けてあったもう一つの紙袋を純也さんに手渡した。「……これは?」「田中さんの秘書さんの分。チョコは今日渡せないとムダになっちゃうから、マフラーだけにしたんだけど。純也さんから田中さんに渡しておいてもらえないかな? 中に田中さん宛ての手紙も入ってるから」「それは……別に構わないけど。どうして俺に?」「純也さんに預けてれば、確実に久留島さんに渡してもらえると思ったから。……ダメかな?」 この理屈はかなりこじつけっぽいけれど、愛美にとってはちゃんと筋が通っているのだ。「…………分かった。預かっとくよ」「よかった! ありがとう! じゃあお願いします」 愛美は安心して、贈り物を純也さんに託した。(純也さんが久留島さんに渡さないわけがないんだよね。だって、彼の秘書なんだから)「……あ、ホワイトデーに何かお返ししないとね」「ううん、お返しは要らないよ。今日もらったチョコだけで充分」「そっか」 ――そうして、愛美にとって初めてのバレンタインデーは、珠莉と治樹という新たなカップルの誕生とともに幕を下ろした。 そしてさやかは兄にチョコとマフラーを渡し、「お前には本命の男はいないのか」とツッコまれ、「うっさいわ」といつものように兄妹漫才を繰り広げていた。 ――この日、愛美が〝あしながおじさん〟に宛てた手紙にはこんなことが書かれていた。****『拝啓、あしながおじさん。 今日はバレンタインデーです。わたしは純也さんに、珠莉ちゃんは治樹さんに、さやかちゃんも本命がいないので仕方なく(笑)お兄さんに手作りチョコと手編みのマフラーを渡すことにしました。 珠莉ちゃんはその時、治樹さんに告白するみた
****『拝啓、あしながおじさん。 お元気ですか? わたしは今日も元気です。……って書くのも、もう三年目なんだなぁ。 いよいよ高校生活で最終学年の三年生になりました! さやかちゃんと珠莉ちゃんとは、寮のお部屋もクラスも卒業まで一緒です。 二年生の学年末テストではちょっと順位を落としてしまいましたけど、それでも無事に進級できました。まあ、今回は体調が悪かったからじゃないけど。 学校の勉強をしながら、作家として長編の原稿を執筆。そのうえ編集者の岡部さんから〈イマジン〉への短編小説の掲載のお話も受けて、そっちの執筆もあったものだからもう大変で! でも、小説を書くのはやっぱり楽しいです。こうして、自分が好きでやりたかったことを仕事にできてるのはおじさまのおかげ。進学させてもらえて、おじさまにはホントに感謝してます。 三年生に上がって、文芸部の部長にもなりました。新入部員、いっぱい入ってほしいな。 あと、わたしは今日で十八歳になりました。法律上は成人ってことです。参政権もあるし、これで少しは純也さんに追いつけるかな……。彼とは対等な立場でお付き合いがしたいから。 そして、来年は三人とも大学に進みます。他の大学へ進学する子もいるけど、わたしとさやかちゃん、珠莉ちゃんはもちろんそのまま茗倫女子大に進むことにしてます。 わたしはもちろん文学部国文科、珠莉ちゃんは将来のことも考えて経済学部に進むことに決めてますけど、さやかちゃんが意外な学部に進みたいって言ってるんです。それはなんと、福祉学部! どうも児童福祉の道に進みたいらしくて。 わたしの境遇とか、リョウくんの境遇を聞いて思うところがあったらしくて。いつかは〈わかば園〉みたいな児童養護施設で働きたいって。でも、教員免許が必要になるから教育学部の方がいいかな、とも言ってます。 わたしは彼女の決意がすごく嬉しくて。さやかちゃんなら、そういう仕事が向いてると思うから。でも、養護施設にこだわる必要はなくて、たとえば児童相談所とか、虐待やネグレクトに遭ってる子供たちを助けるNPOとかに就職してもいいんじゃないかなって思ってます。 わたしも負けてられない! 今書いてる長編小説を最後まで書き上げて、必ず出版にまでこぎつけます。その前に短編集が発売されるかも。その時はおじさま、ぜひ買って読んで下さいね。あと、聡美園長に
――三年生に進級して間もないある日のこと。愛美はさやかから思いがけない頼みごとをされた。「ねえ愛美、今年の夏休み、ちょっとバイトする気ない? さっき、お母さんから電話で頼まれたんだけど」「バイト? ってどんなバイト?」 ある週末の午後。部屋で誰かからの電話を受けていたらしいさやかが、通話を終えてから勉強スペースでパソコンを開いて執筆していた愛美に声をかけてきたのだ。 ちなみに、ここに珠莉はいない。治樹さんとデート中である。もし彼女がここにいたとしても、さやかは彼女に声をかけなかったと思うけれど。 愛美は内容にもよるけれど、引き受けてもいいかなと思っていた。作家として原稿料はもらえるようになったけれど、まだまだ金銭的余裕はない。それに、〝あしながおじさん〟に出してもらった学校と寮の費用を返そうにもまだ全然足りないのだ。(純也さんにだって、デートのたびにお金出してもらってるし。この経済格差が恨めしい……。もっとボンと稼げたらいいのに。本が出版されて、印税がまとめて振り込まれてくるとか) ちなみに、作家デビューしてから愛美は初めて銀行に自分名義の口座を開設した。〝あしながおじさん〟からのお小遣いは相変わらず現金書留で送られてくるけれど、原稿料は銀行振り込みなのだ。 ――それはさておき。「あのね、家庭教師(かてきょー)のバイトなんだけど。葉(は)山(やま)に住んでるお母さんの知り合いが、来年高校受験を控えてる上の娘さんの勉強を見てくれる人を探してるんだって。あ、下の娘さんも一緒にね。でさ、最初はあたしにってこの話が来たんだけど、あたしじゃちょっと人に教えるの自信なくて。……ほら、学校の成績が……ちょっと」「なるほど。それで、わたしにってこと?」「そういうこと。一ヶ月間の泊まり込みなんだけど、自由な時間もいっぱいあって。謝礼は一ヶ月で十万円出すって」「十万も? わたしなら、五万でも『いいのかなぁ』って思っちゃうけど」「だろうね。愛美は金銭感覚しっかりしてるからねー。でも、先方さんが『十万出す』って言ってくれてるんだから。すごくいい人だよ。ただ、娘さんたちが全っ然勉強やる気になってくれなくて困ってるんだって言ってた。……で、どうする?」「わたしは引き受けたいけど、おじさまが何て言うかな……。返事、急ぐの?」 十八歳といえば、アルバイトをするのに
小説に関わることは、全部愛美が自分でやりたくてやっていることなのだ。文芸部の部長だって、引き受けてみたらけっこう楽しいので、今はやってみてよかったなと思っている。 三年生に上がってからは勉強もますます難しくなり、愛美は奨学生でもあるので現役高校生作家を続けるのにグンとハードルも上がってしまったけれど、好きなことを続けていくことは決して楽しいことばかりではないのだ。時には苦労もしなければいけないのだと、愛美は分かっている。「……あ、ゴメンね愛美! 仕事中だったよね。この話は一旦終わるから、執筆続けて」「大丈夫だよ、さやかちゃん。話聞きながらキリのいいところまで書けたから。そろそろ休憩する」「そっか。じゃあ、あたしはお母さんにさっきのこと伝えとくね」「うん」 愛美はさやかがお母さんに折り返すのを見届け、パソコンを閉じてキッチンでお茶の用意をした。今日は暖かいので、グラスに氷を数個入れて、ストレートのアイスティーを注いだ。ちなみに、寮のコンビニで買ってきた五〇〇ミリペットボトルの市販品である。 勉強スペースに戻ってアイスティーを飲みながら、〝あしながおじさん〟に手紙を書こうと思い立った。愛美の愛読している『あしながおじさん』にも、似たようなシチュエーションが出てくることを思い出したのだ。(えっと、あのお話の中ではどういう展開になったんだっけ? 確か、バイトを反対される代わりに旅行へ行くことを勧められて……)
ジュディがそれを断るべく手紙を書いている最中にジャーヴィーが訪ねてきて、家庭教師をする決意を固めたジュディは彼とケンカになる。そんな展開だったはずだ。 それはまさに、家庭教師のバイトを引き受けたいと思っている、今の愛美そのものだけれど……。(まあ、あのまんまの展開になるとはわたしも思ってないけど。さて、純也さんはどうするんだろう?)「……よし、善は急げだ」 愛美は桜柄のレターパッドを取り出し、ペンをとった。****『拝啓、あしながおじさん。 またの連投、失礼します。今日はちょっと、おじさまに報告というか相談したいことがあって、この手紙を書いてます。 実はさやかちゃんから、「今年の夏休みにバイトをする気はない?」って声をかけられました。葉山にお住まいのさやかちゃんのお母さんの知り合いが、娘さんたちの家庭教師をしてくれる子を探してるんだそうです。上の娘さんが今中三で、高校受験を控えてるらしくて。あと、下の娘さんの勉強も見てほしいそうです。 この話、最初はさやかちゃんに来たらしいんですけど、さやかちゃんは「人に教える自信がないから、愛美どう?」って勧めてくれたんです。 一ヶ月間の泊まり込みで、自由に使える時間もいっぱい取れて、謝礼は十万円も頂けるそうです! 高校生にしては、なかなかの高額バイトだと思うでしょ? でも、先方さんから謝礼は十万円って言われたそうです。わたしからだったら、五万円でも「こんなにもらっていいの?」って思ったんじゃないかな。 わたし、このバイトの話、受けるつもりでいます。正直言えば、十万円っていう謝礼も魅力的だけど、自分が誰かの役に立てることが嬉しくて。 でね、そこのお家でのバイトを終えてから残りの十日間は、また長野で過ごすつもりです。 どう、おじさま? わたし、どんどん自立に向かって行ってると思いませんか? ちゃんと夏休みの計画だって自分で立てられるようになったんだから! おじさまが反対したってムダですから。十八歳になったら、バイトするのに保護者の許可は必要ないの。今回、こうして手紙を書くことにしたのは、久留島さんに隠しごとはできないなと思ったからです。 もちろん、作家の仕事だって投げ出したりしません。自分のやるべきこともキチンとやります。でも、わたしの意志は固いんだってことを、おじさまに伝えておきたくて。では!
* * * * というわけで、卒業式前の連休――というか厳密に言えば自由登校期間だけれど――の初日、二泊三日分の荷物を携えた愛美とさやかはJR長野駅の前に立っていた。「――愛美、あたしの分まで交通費全額出してもらっちゃって悪いね。でもよかったの?」「いいのいいの! わたし今、口座に大金入ってるから。ひとりじゃ使いきれないし、使い道も分かんないし」 冬休みに突然舞い込んできた二百万円というお金は、まだギリギリ高校生でしかも施設育ちの愛美にとってはとんでもない大金だった。作家として原稿料も振り込まれてくるけれど、さすがに百万円単位はケタが違う。印税でも入ってこない限り、そんな金額は目にすることがないと思っていた。「そっか、ありがとね」 多分、さやかもそんな大金はあまり見ないんじゃないだろうか。 そして、愛美に自分の分まで交通費を負担してもらったことを申し訳なく感じているだろうから、後で「立て替えてもらった分、返すよ」と言ってくるに違いない。その分を受け取るべきかどうか、愛美は迷っていた。 さやかの顔を立てるなら、素直に受け取るべきだろうけれど。愛美としては貸しにしているつもりはないので、返してもらうのも何か違う気がしているのだ。 それはきっと、もっと大きな金額を愛美に投資してくれている〝あしながおじさん〟=純也さんも同じなんだろうと愛美は思うのだけれど……。「――農園主の善三さんの車、もうすぐこっちに来るって。奥さんの多恵さんからメッセージ来てるよ」「そっか」 スマホに届いたメッセージを見せた愛美にさやかが頷いていると、二人の目の前に千藤農園の白いミニバンが停まった。助手席から多恵さんが降りてくる。「愛美ちゃん、お待たせしちゃってごめんなさいねぇ。――あら、そちらが電話で言ってたお友だちね?」「はい。牧村さやかちゃんです」「初めまして。愛美の大親友の牧村さやかです。今日から三日間、お世話になります」 さやかが礼儀正しく挨拶をすると、多恵さんはニコニコ笑いながら「こちらこそよろしく」と挨拶を返してくれた。「静かな場所で過ごしたくて、ここに来たいって言ったそうだけど、ウチもまあまあ賑やかよ。だからあまり落ち着かないかもしれないわねぇ」「いえいえ! 寮の食堂に比べたら全然静かだと思います。ね、愛美?」「うん、そうだね。多恵さん、ウ
――今年の学年末テストもバレンタインデーも終わり、卒業式が間近に迫った三月初旬。さやかが思いがけないことを愛美に言った。「卒業式前の連休、あたしも一緒に長野の千藤農園に行きたいな。愛美、執筆の息抜きに行きたいって言ってたじゃん」「えっ、わたしは別に構わないけど……。さやかちゃん、急にどうしたの?」 部屋の勉強スペースで執筆をしていた愛美は、キーボードを叩いていた手を止めて小首を傾げた。彼女が「千藤農園へ行きたい」なんて言ったことは今まで一度もなかったから。「いやぁ、愛美がいいところだって言ってたし、あたしも前から一度は行ってみたいと思ってたんだよね。純也さんのお母さん代わりだったっていう人にも会ってみたかったしさ。っていうかぶっちゃけ、最近食堂がうるさくてストレスなんだわ」「あー……、確かに。会話もままならない感じだもんね」 さやかも言ったとおり、最近〈双葉寮〉の食堂では特に夕食の時間、みんなが一斉におしゃべりをする声が大きくこだましてやかましいくらいである。隣り同士や向かい合って座っていても、話す時には手でメガホンを作って「おーい!」とやらなければ聞こえないのだ。そりゃあストレスにもなるだろう。「分かった、わたしから連絡取ってみるよ。この時期だと……、農園では夏野菜の苗を植え始めたりとかでちょっとずつ忙しくなるだろうから、一緒にお手伝いしようね。あと、純也さんと二人で行った場所とかも案内してあげる」「やった、ありがと! 野菜育てるお手伝いなら、ウチもおばあちゃんが家庭菜園やってるからあたしもよくやってたよ。じゃあ、連絡よろしくね」「うん」 愛美のスマホには、千藤農園の電話番号はもちろん多恵さんの携帯電話の番号も登録してある。愛美から連絡したら、多恵さんはびっくりしながらも喜んでくれるだろう。ましてや、今回は一人ではなく友だちも一人連れていくんだと言ったら、大喜びで歓迎してくれるだろう。「じゃあ、原稿がキリのいいところまで書けたら、さっそく多恵さんに電話してみよう」 という言葉どおり、愛美は執筆がひと段落ついたところで多恵さんの携帯に電話した。
* * * * 部活も引退したことで執筆時間を確保できるようになった愛美は、本格的に新作の執筆に取りかかることができるようになった。「――愛美、まだ書くの? あたしたち先に寝るよー」 〝十時消灯〟という寮の規則が廃止されたので、入浴後に勉強スペースの机にかじりついて一心不乱にノートパソコンのキーボードを叩き続けていた愛美に、さやかがあくび交じりに声をかけた。横では珠莉があくびを噛み殺している。「うん、もうちょっとだけ。電気はわたしが消しとくから、二人は先に寝てて」 本当に書きたいものを書く時、作家の筆は信じられないくらい乗るらしい。愛美もまさにそんな状態だった。「分かった。でも、明日も学校あるんだからあんまり夜ふかししないようにね。じゃあおやすみー」「夜ふかしは美容によろしくなくてよ。それじゃ、おやすみなさい」 親友らしく、気遣う口調で愛美に釘を刺してから、さやかと珠莉はそれぞれ寝室へ引っ込んでいった。「うん、おやすみ。――さて、今晩はあともうひと頑張り」 愛美は再びパソコンの画面に向き直り、タイピングを再開した。それから三十分ほど執筆を続け、キリのいいところまで書き終えたところで、タイピングの手を止めた。「……よし、今日はここまでで終わり。わたしも寝よう……」 勉強部屋の灯りを消し、寝室へスマホを持ち込んだ愛美は純也さんにメッセージを送った。 『部活も引退したので、今日からガッツリ新作の執筆始めました。 今度こそ、わたしの渾身の一作! 出版されたらぜひ純也さんにも読んでほしいです。 じゃあ、おやすみなさい』 送信するとすぐに既読がついて、返信が来た。『執筆ごくろうさま。 君の渾身の一作、俺もぜひ読んでみたいな。楽しみに待ってるよ。 でも、まだ学校の勉強もあるし、無理はしないように。 愛美ちゃん、おやすみ』「……純也さん、これって保護者としてのコメント? それとも恋人としてわたしのこと心配してくれてるの?」 愛美は思わずひとり首を傾げたけれど、どちらにしても、彼が愛美のことを気にかけてくれていることに違いはないので、「まあ、どっちでもいいや」と独りごちたのだった。 高校卒業まであと約二ヶ月。その間に、この小説の執筆はどこまで進められるだろう――?
――そして、高校生活最後の学期となる三学期が始まった。「――はい。じゃあ、今年度の短編小説コンテスト、大賞は二年生の村(むら)瀬(せ)あゆみさんの作品に決定ということで。以上で選考会を終わります。みんな、お疲れさまでした」 愛美は部長として、またこのコンテストの選考委員長として、ホワイトボードに書かれた最終候補作品のタイトルの横に赤の水性マーカーで丸印をつけてから言った。 (これでわたしも引退か……) 二年前にこのコンテストで大賞をもらい、当時の部長にスカウトされて二年生に親友してから入部したこの文芸部で、愛美はこの一年間部長を務めることになった。でも、プロの作家になれたのも、あの大賞受賞があってこそだと今なら思える。この部にはいい思い出しか残っていない。 ……と、愛美がしみじみ感慨にふけっていると――。「愛美先輩、今日まで部長、お疲れさまでした!」 労(ねぎら)いの言葉と共に、二年生の和田原絵梨奈から大きな花束が差し出された。見れば、他の三年生の部員たちもそれぞれ後輩から花束を受け取っている。 これはサプライズの引退セレモニーなんだと、愛美はそれでやっと気がついた。「わぁ、キレイなお花……。ありがとう、絵梨奈ちゃん! みんなも!」「愛美先輩とは同じ日に入部しましたけど、先輩は私にいつも親切にして下さいましたよね。だから、今度は私が愛美先輩みたいに後輩のみんなに親切にしていこうと思います。部長として」「えっ? ホントに絵梨奈ちゃん、わたしの後任で部長やってくれるの?」 いちばん親しくしていた後輩からの部長就任宣言に、愛美の声は思わず上ずった。「はい。ただ、正直私自身も務まる自信ありませんし、頼りないかもしれないので……。大学に上がってからも、時々先輩からアドバイスを頂いてもいいですか?」「もちろんだよ。わたしも部長就任を引き受けた時は『わたしに務まるのかな』ってあんまり自信なくて、後藤先輩とか、その前の北原部長に相談しながらどうにかやってきたの。だから絵梨奈ちゃんも、いつでも相談しに来てね。大歓迎だから」 「ホントですか!? ありがとうございます! でもいいのかなぁ? 愛美先輩はプロの作家先生だから、執筆のお仕事もあるでしょう?」「大丈夫だよ。むしろ、執筆にかかりっきりになる方が息が詰まりそうだから。絵梨奈ちゃんとおしゃべりして
それはともかく、わたしは園長先生から両親のお墓の場所を教えてもらって、クリスマス会の翌日、園長先生と二人でお墓参りに行ってきました。〈わかば園〉で聡美園長先生たちによくして頂いたこと、そのおかげで今横浜の全寮制の女子校に通ってること、そしてプロの作家になれたことを天国にいる両親にやっと報告できて、すごく嬉しかったです。 園長先生はさっそくわたしが寄付したお金を役立てて下さって、今年のクリスマス会のごちそうとケーキをグレードアップさせて下さいました。おかげで園の弟妹たちは大喜びしてくれました。まあ、ここのゴハンだって元々そんなにお粗末じゃなかったですけどね。 そしておじさま、今年もこの施設の子供たちのためにクリスマスプレゼントをドッサリ用意して下さってありがとう。もちろん、おじさまだけがお金を出して下さったわけじゃないでしょうけど。名前は出さなくても、わたしにはちゃんと分かってますから。 お正月には、施設のみんなで近くにある小さな神社へ初詣に行ってきました。やっぱりおみくじはなかったけど……。 もうすぐ三学期が始まるので、また寮に帰らないといけないのが名残惜しいです。やっぱり〈わかば園〉はわたしにとって実家でした。三年近く離れて戻ってきたら、ここで暮らしてた頃より居心地よく感じました。 三学期が始まったら、文芸部の短編小説コンテストの選考作業をもって文芸部部長も引退。そして卒業の日を待つのみです。わたしはその間に、〈わかば園〉を舞台にした新作の執筆に入ります。今度こそ出版まで漕ぎつけられるよう、そしておじさまやみんなにに読んでもらえるよう頑張って書きます! ここにいる間にもうプロットはでき上って、担当編集者さんにもメールでOKをもらってます。 では、残り少ない高校生活を楽しく有意義に過ごそうと思います。 かしこ一月六日 愛美』****
****『拝啓、あしながおじさん。 新年あけましておめでとうございます。おじさまはこの年末年始、どんなふうに過ごしてましたか? わたしは今年の冬休み、予定どおり山梨の〈わかば園〉で過ごしてます。新作の取材もしつつ、弟妹たちと一緒に遊んだり、勉強を見てあげたり。 施設にはリョウちゃん(今は藤(ふじ)井(い)涼介くん)も帰ってきてます。新しいお家に引き取られてからも、夏休みと冬休みには帰ってきてるんだそうです。向こうのご両親が「いいよ」って言ってくれてるらしくて。ホント、いい人たちに引き取ってもらえたなぁって思います。おじさま、ありがとう! お願いしててよかった! リョウちゃんは今、静岡のサッカーの強豪高校に通ってて、三年前よりサッカーの腕前もかなり上達してました。体つきも逞しくなってるけど、あの無邪気な笑顔は全然変わってなかった。「やっぱりリョウちゃんだ!」ってわたしも懐かしくなりました。 そして、わたしが今回いちばん知りたかったこと――両親がどうして死んでしまったのかも、聡美園長先生から話を聞かせてもらえました。 わたしの両親は十六年前の十二月、航空機の墜落事故で犠牲になってたんです。で、両親は事故が起きる二日前に、小学校時代の恩師だった聡美園長にまだ幼かったわたしを預けたらしいんです。親戚の法事に、どうしてもわたしを連れていけないから、って。でも、それが最後になっちゃったそうで……。 幸いにも両親の遺体は状態がよかったから、園長先生が身元
「わたしが作家になれたのも、その人のおかげなんだよ。だから、わたしも感謝してるの」「そっか。うん、めちゃめちゃいい人だよな。で、姉ちゃん。さっき言ってた『新作のための取材』ってどういうこと?」「あのね、新作はここを舞台にして書くつもりなの。ここにいた頃のわたしを主人公のモデルにして。……この施設がわたしの、作家としての原点だと思ってるから」 もし両親が生きていて、この施設で暮らすことがなかったとしたら、愛美は果たして「作家になりたい」という夢を抱いていただろうか……? そう思うと、やっぱり愛美の作家としての原点はここなのだと愛美は思うのだった。「オレも久しぶりに愛美姉ちゃんと過ごせて嬉しいよ。静岡に行って、高校に上がってから夏休みにもここに帰ってきてたけど、姉ちゃんがいないと淋しかったからさ。また一緒にサッカーの練習、付き合ってよ」「いいよ。でもリョウちゃん、サッカー上手くなってるからついて行けるかな……」 三年近く会っていない間に、彼のサッカーはグンと上達している。サッカーの強豪校に進学させてもらったからでもあると思うけれど、今の涼介に愛美はついて行けるかちょっと不安だ。「大丈夫だよ、一緒にボールを追いかけられるだけでオレは楽しいから」「そっか」 いちばん年齢の近かった涼介と再会できただけで、愛美はここを離れていた三年間という時間がまた巻き戻ったような気持ちになった。 * * * * その夜、〈わかば園〉では施設を卒業した愛美と涼介も参加してのクリスマス会が行われた。 今年のクリスマス会は、早速愛美が寄付したお金も使われたのか例年に増してケーキもごちそうも豪華になっていて、子供たちも大喜びだった。 そして、例年どおり〝あしながおじさん〟=田中太郎氏=純也さんを含む理事会から子供たちへのクリスマスプレゼントもどっさり用意されていて、「そうそう、これがここのクリスマスだったなぁ」と懐かしくなった。
* * * * 愛美は宿舎へ向かう前に、庭の方を通りかかった。サッカー少年の涼介が、今日もここでサッカーの練習をしているような気が下から。 今もこの施設に暮らす男の子たちに混ざって、高校生くらいの少年が一人、サッカーボールを追いかけながら走っている。愛美は彼の顔に、自分がよく知っている少年の面影を見た。「――あっ、やっぱりいた! お~い、リョウちゃーん!」 手を振りながら呼びかけると、驚きながらも手を振り返してくれた少年――小谷涼介は、身長が少し伸びて筋肉もついているけれど、顔は三年前とほとんど変わっていない。「愛美姉ちゃん! 久しぶり……っていうかなんでここに? ――あ、ちょっとごめん! お前ら、今日の練習はここまで。もうすぐ晩メシだから、ちゃんと手洗えよ!」 子供たちのコーチをしていたらしい涼介は、泥まみれになっている彼らに練習の終了を告げた。三年近くここに帰ってこない間に、彼もすっかり〝お兄さん〟になっていた。「リョウちゃん、元気そうだね。わたしもね、今年の冬休みの間はここで過ごすことにしたんだよ。新作のための取材も兼ねてるんだけど」「そっか。そういや愛美姉ちゃん、作家になったんだよな。おめでと。オレも本買ったよ。義父(とう)さんも義母(かあ)さんも、『この本は施設にいた頃のお姉ちゃんが書いたんだ』ってオレが言ったら二人とも買ってくれてさ。ウチにはあの本が三冊もあるんだぜ」「そうなんだ? リョウちゃん、すっかり新しいお家に馴染んでるみたいだね。よかった」 自分が〝あしながおじさん〟=純也さんにお願いして見つけてもらった涼介の養父母。彼がその家に馴染んでいるか、愛美はずっと心配だったけれど、彼の口ぶりからしてすっかり気に入っているようでホッとした。「うん。二人とも、オレにすごくよくしてくれてるよ。園長先生から聞いたんだけど、愛美姉ちゃんが理事の人に頼み込んで見つけてくれたんだよな? 姉ちゃん、ありがとな」「ううん、わたしはただお願いしただけで、実際に動いてくれたのはその理事の人だよ。わたしの時にも手を差し伸べてくれたから、リョウちゃんのことも何とかしてくれるかな……と思ってダメもとでお願いしたら、ちゃんとしてくれて。ホント、いい人でしょ?」 彼はお金を出してくれて終わりではなく、常に相手にとって最善の方法を見つけてくれる。 愛
愛美の答えを聞いた園長は、困ったような笑みを浮かべた。「……実はね、愛美ちゃん。辺唐院さんも今月の第一水曜日にここへいらした時、私におっしゃってたのよ。『どうやら彼女は、僕の正体に気づいているみたいです』って。あなたは頭のいい子だから、いずれはこうなると思ってらっしゃったみたいで。もしかしたら、あなたに本当のことを打ち明けるタイミングを計りかねている感じだったわ」「そう……なんですか? だとしたら、彼はいつごろわたしに打ち明けてくれるつもりなんだろう……?」 彼がタイミングを計っていることは間違いないだろうけれど。打ち明けると愛美と気まずくなるのを恐れて、なかなか打ち明けられないというのもあるのかもしれない。「――とにかく、今日から二週間はあなたも実家に帰ってきたつもりで、ここでお過ごしなさい。ちゃんと取材には応じてあげるから。あとは子供たちの相手をしてくれたり、事務作業を手伝ってくれると助かるけれど。それはあくまであなたの意思に任せるわね」「はい」「あなたはまた六号室で寝泊まりしてもらおうかしらね。みんな、愛美お姉ちゃんと一緒に寝るのを楽しみにしてるから」「分かりました。六号室かぁ……、懐かしいなぁ」 愛美はここを巣立っていくまでずっと、六号室で五人の幼い弟妹たちと過ごしていたのだ。あれから三年近く経って、あの子たちも大きくなったことだろう。幼稚園の年長組だった子も、小学三年生になっているはずだ。「あ、あとね、涼介君も今、施設に帰ってきてるのよ。引き取られた先のご両親が、夏休みと冬休みにはここに帰ってきてもいいっておっしゃったらしくて」「えっ、リョウちゃんも? 嬉しいな」「ええ。今夜はクリスマス会をやるから、愛美ちゃんも参加してね。涼介君も参加したいって言ってたから。お正月にはみんなでまた近くの神社へ初詣に行きましょうね」「はい!」 まるで自分の祖母のような園長とのやり取りで、愛美はあっという間に三年前に引き戻されたような懐かしい気持ちになった。このアットホームな雰囲気が、この園での生活が楽しいと感じたいちばんの理由だった。「――そういえば、その服の感じも懐かしいわね。愛美ちゃん、ここにいた頃もよくブルーのギンガムチェックの服を着てた憶えがあるわ」 園長はふと、愛美が着ているブルーのギンガムチェックのシャツを眺めて目を細める。ボト